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Section 1
## 挿絵
## 序
台湾版 軽之国度より転載 校正:Castaway スキャン:Castaway 修図:Castaway 台所の片隅で、鍋が湯気を立てている光景は、もはや時代遅れの昔話になってしまった。 実際、スープはレストランのメニューから、ずいぶん前に姿を消している。庶民的なスープを売ったところで、かけた手間に見合う金にはならない。それに、スープ一杯とパンで腹が満たされてしまえば、客は続く料理を楽しめなくなる。 ともかく、いまやスープはメニューの目立たない隅に追いやられている。店によっては、遠回しに「本日のおすすめスープ」などという名を掲げている。「本日のおすすめスープ」とは、要するに、その日余った材料で作ったものにほかならない。 スープを、時間を稼ぐための道具としか見ていない料理人もある。あらかじめ作って保温しておけば、すぐに出せる。次の一品を出すまでの、ちょうどいい緩衝になる。 だからスープは、かなり地位の低い料理だと言っていい。 それでも——こんな言い方が妥当かどうかはわからないが——私はメニューにスープの痕跡を見つけると、つい一杯注文して口にしてしまう。 そして、「やはり違う」という思いが浮かぶ。 あのときの味ではない——
## 序章
私がはじめてあの邸を訪れた日のことは、いまもかなり鮮明に覚えている。 邸は湘南にあり、かつての別荘地の面影が残る一角にあった。 邸へ向かう海岸の坂道は、昼でも奥深く、薄暗い。両側に並ぶ家々がいずれも立派な庭を備え、そこに植えられた木々の枝葉が空を覆っているせいだ。 古びた洋館がひしめく建物群のなかでも、目の前の邸はひときわ目を引いた。こんな場所にひとりで暮らす夫人とは、いったいどんな人なのだろう、と好奇心が抑えられない。ある財閥の令嬢だったという話も聞いたが、真偽のほどはわからない。いずれにせよ、相手の家がどれほど裕福かということは、私にさえわかった。 夫人の夫は、政界と相当深い関わりを持つ実業家だった。かつて投資会社を経営していたが、仕事中に突然心臓発作を起こして亡くなった。夫人はその会社の経営権を継いだ。周囲の気遣いや心配を一蹴し、事業の版図を広げ、巨万の富を積み上げ、今からおよそ十年前に隠退したあと、以前別荘として使っていたこの邸に隠棲し続けている。 そして私は、邸の一室で、貴崎による簡単な面接を受けた。 貴崎は、私がこの邸で働き始めるずっと前から、夫人の生活にまつわる大小あらゆることを担ってきた人だ。いつもネールー・ジャケットのような立ち襟のスーツを着こなし、丁寧に磨き上げた革靴を合わせ、足音もなく歩く。 立ち居振る舞いから、経験を積んだ……
## 第一話 フランス風家庭のポタージュ
1 海岸一帯に人影はない。防波堤の上には、白い鳥が数羽とまっている。正確な方角はわからないが、カモメの鳴き声が聞こえる。思わず哀しみを誘われる景色だ。 道沿いには松林が広がり、私はその松の手前に車を停めることにも、もう慣れていた。今日もいつもどおり車を停め、歩いて邸まで向かう。海風が松林のあいだをそっと抜け、砂埃を舞い上げる。私は風を背に、その道のりを歩いた。風がやんだとき、目を開けると、海が飛び込んでくる。 海を見つめていると、ときどき、小さな感情の波が心に打ち寄せるのを感じる。そのたびに、気づかなかったふりをして、少し足を速める。歩くことに意識を集中すれば、ざわついた気持ちは消えて、もとの静けさに戻れる。 山と海に挟まれたこの街は、かつて海辺の避暑地として一時栄えた。しかし今日では、ひどく寂しい。三角屋根の駅舎の前にある小さな商店街まで、ともに凋落している。近郊に古いホテルが一軒あるほかは、大きな建物はない。住宅地は数十年前まで、政治家や実業家の別荘が軒を連ねていたが、いまは空き家ばかりで、見るからに荒涼としている。 両側に邸のコンクリート外壁が途切れなく続く緩やかな坂を上ると、あの邸が見える。 裏門に滑り込むと、庭の草花を整えている夫人の姿が、ぼんやりと目に入った。年齢はおよそ……
## 第二話 ビールスープ
1 フランス風家庭のポタージュの一件が幕を閉じてから、三日が過ぎていた。 出勤前、海岸沿いを歩く。道端には黄色い花が咲いている。海鳥の足跡が、木から落ちた枯れ枝のように、岸辺に散らばっている。 角を曲がると、たちまち海が目に飛び込んできた。朝日を浴びてきらめく海は、このうえなく美しい。だが、その美しい瞬間は永遠にはならない。光は次第に色褪せる。夜が来れば、一面の漆黒に包まれる。今日は朝から酷く蒸し暑く、邸に着くころには、背中は汗で濡れていた。 ふつうの厨房はかなり蒸し暑いものだが、ここの厨房はそうでもない。邸は古いのに、空調は意外なほど整っている。 掃除を終えて、少し息を入れた。窓の外を見ると、ちょうど外から戻ってきた千和と、迎えに出た犬のヴィンセントが目に入った。陽の光を浴びた彼女は、まぶしいほどに輝いて見える。森野がかつて「彼女は俺たちとは別の世界の人間だ」と言っていたが、あながち間違っていないのかもしれない。 森野が配達に来た。いつものように検品を済ませ、納品書にサインする。彼の服も汗で濡れていたので、冷たい飲み物を出してもてなした。礼を言ったあと、彼はそれを一息に飲み干した。 「今日のトマトはすごくいい。希少品種だよ。ついでに言うと、料理をする人間は食材の品種をもっと深く知るべきだと思う。発注書にトマトと二文字しか書いてなくても、風味は種類でまったく違う」 トマトを手に取ると、どこか初……
## 第三話 ロートレックのスープ
1 以前、厨房が地下にあるレストランで働いていたことがある。日の差さない厨房で働いていると、体は疲れに蝕まれ、心も日に日に沈んでいくように感じた。 あの経験があってから、私は日の差す厨房でしか働かないようにしている。質のいい店のなかには、厨房の位置が客の食事スペースより優れているところさえある。邸の厨房は、その点でまったく非の打ちどころがない。大きな窓を開け放ち、部屋いっぱいに陽光を入れる。千和は、やわらかな光の落ちるその窓辺で、文庫本を静かに読んでいた。 彼女は少々大きめのコックコートの袖をまくり、退屈しきった顔をしていた。それでも、千和がいるだけで、厨房の光景にはどこか非現実的な色が差す。 千和に料理を教えてほしいと言われてから、一緒に厨房にいる時間は大きく増えた。そうでありながら、私にはまだ、どうしても解せないことがたくさんある。そもそも、彼女が料理を習おうとする動機は何なのか。 ときどき、彼女がコンロの上の鍋を見つめながら、思考はとうに遠くへ飛んでいるのではないか、と疑ってしまう。直接聞いてもかまわないだろうとは思うのに、なかなか口に出せない。 視線を窓の外の庭へ向け、少し先の木に焦点を合わせ、彼女に気づかれないよう、慎重に息を吐いた。 「千和さんの友達になってください」 貴崎は私にそう言った。 友達にはなれない。私は心の中でそう思った。 私と千和では、年齢が違いすぎる。彼女の内側で何が考えられているのか、まったく想像もつかない。二人のいる世……
## 第四話 モックタートルスープ
1 八月も、もう終わりに近づいていた。 外を歩けば相変わらず猛烈に暑いが、横浜のギャラリーのなかはひんやりとしている。ここでは小規模な回顧展が開かれていて、ほどなく前に亡くなった画家の作品が並んでいた。千和は珍しく黒いワンピースを着ていて、銀の腕時計が、その手首をいっそう細く見せていた。 彼女はギャラリーのなかを立ち止まりながら歩き、白い壁の絵を眺めていた。静かなギャラリーの空間は、張りつめた空気に包まれている。ここでは、時間の流れが外よりずっと遅い。 「作品から、作者の存在を感じ取れますか」 千和が小さく尋ねた。 私は首を横に振った。絵は私にとって縁の薄い領域だが、この故人の画家のことは知っている。 「数十年前の作品には見えない」彼女は耳打ちするように、そっと言った。 「たしかに」 二人は声を潜めて言葉を交わした。それだけで、私たちのあいだを流れる空気は、ずっと親しいものに感じられた。 千和が突然、ギャラリーに付き添ってほしいと言い出したときは、本当に驚いた。だが、彼女の頼みを断れるはずもなく、それに、一時の気の向くままに付き合うことを、私も嫌だとは思っていなかった。 もちろん、故友の作品を見るのは生まれて初めてだ。ギャラリーに並んでいるのは、その画家が日本を旅したときに描いた、ミニマルな素描だ。作品の雰囲気は、小さく雅なギャラリーの空間によく合っている。 鉛筆で描かれた素描には、描き直しの跡がたくさん残っている。作品が定まるまで、画家は相当な時間と労力を費やしたのだろう。……
## 第五話 天下一のM味スープ
1 料理人になったことを、私は後悔していない。ただ残念なのは、「食べる」ということを、純粋に楽しめなくなったことだ。 もちろん、美味に出会えば心は躍るし、誰かと食卓を囲めばかなり楽しい。それでも、食べているときには、いつも料理人の立場で考える自分がいる。他人が食材を扱う手際に思わず感服し、自分ならどう作るだろうか、と考えてしまう。 幼い私にとって、母の作る料理をいただくことは、きわめて純粋な喜びだった。 あの日のサンルームを、私はまだ覚えている。その年は春の足音が早く、庭の草木は爽やかで心地よい香りを放ち、土も甘い清らかな匂いを立ちのぼらせていた。母の住まいに訪ねられる日は多くなかったが、彼女に会えるこの場所が好きだった。 厨房は私の遊び場だった。ありとあらゆる調理道具が、私の玩具だった。子どもだった私の労働の成果はサラダで、遊びの成果はスープだった。母は料理が上手で、もっと近くにいたいと思い、料理の道へ踏み出した——おそらく、無意識にそうしたいと思っていたのだろう。 母は厨房から、両手でほかほかのスープを運んできた。話しながら微笑んでいたが、その表情にはどこか躊躇いがあった。彼女はスープをすくい、椀によそい、その椀を私の前に置いた。私は銀のスプーンで一口すくい、口へ運んだ。陽に温められた窓辺のようなぬくもりを帯びた熱いスープは、甘く、幸福な感じがした。 「とてもおいしい。……
## 終章
かくして、私は職を失った。邸の給与が高かったおかげで、生活がすぐに行き詰まることはない。あの邸で過ごした時間は、ただの南柯の夢だったのではないか、とたまに疑ってしまう。太陽が東から昇り西に沈むたび、私は過去から遠ざかっていく。いまの新しい生活はかなり忙しく、そのおかげで、気落ちしている暇もない。 一度、邸の近くを通ったことがあるが、回り道はしなかった。車窓から見える景色は、かなり美しかった。海岸線の道を走る車のなかから、色づき始めた山の木々と、輝きに満ちた海が見える。微風が、砂浜を軽やかになでていく。 こうした感慨を誘う景色に出会うたびに、千和を思い出す。ある意味で、いまの私はもう寂しさを感じなくなっている。あの日から、彼女の顔を一度も見ていない。それでも、私たちのあいだには、どんな名も冠せられない関係が一つあって、互いを繋いでいる。過去を思い出すたびに、胸の内にその感覚が湧いてくる。同時に、訪れようとする厳しい冬を前に足踏みしている私へ、大きな勇気をもたらしてくれる。 彼女はこの世界の、どこかの片隅にいる。それさえわかっていれば、十分だ。会いに行こうとは思わない。ただ、心のどこかには、あのとき自分がお節介だったのではないかという、疚しさがいつも残っている。 秋はあっという間に過ぎ、冬が来た。まだ正職は見つけていないが、ときどき友人のレストランを手伝っている。厨房こそ、やはり私のいるべき場所だ。 もともと張りつめ……